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好んでとりあげたいテーマでは決してないが、最近、上海でもふきあれた反日の「風」について書かないわけにはいかない。中国における「愛国=反日」旋風についてお話したい。
私は、4月11日から13日までマニラ、14日、15日は香港、16日から23日まで東京と大阪にいた。だから、上海におけるデモが最高潮に達した16日は、東京にいたのでまさに対岸の火としてみていた。まきこまれなくてラッキーという気持ちと、せっかくだから現場にいたかったという気持ちが相半ばした。
対岸の火といったが、実は、私も相当のショックを受けた。正直いって、上海は国際都市で、愛国心とかとは無縁で、お金もうけに走っているから、このようになるとは予想していなかった。私だけでなく、中国人の友人の中にも、「上海ではそういうことは起きませんよ」といっていた人や、「今現在、日本が侵略しているというならともかく、過去の侵略についてこれほどのデモになってしまうのは解せない」という人がいた。
私の周辺のごく限られた、中国に関係している日本人の受け止め方についてはどうか。どうもこの一連の事件がおきているあいだ、日本にいた人の方が、中国にいた人よりも、深刻に受け止めていたようだ。というのも、さすがに民主主義の国である日本のメディアの方が、中国のメディアよりは情報開示が進んでいて、本件をより大きくかつ詳細にとりあげていたからだ。今の世の中、実際に事件に参加する人以上に、どのように映像メディアで報道されるかが、世界の行方に大きな影響をもつ。
日本における報道のすべてに目を通したわけではないが、私が見たり読んだ範囲でも、論点は出尽くした観がある。そこで、すでに多くが語られた原因分析論や責任論はさけて、一連のデモを契機に、将来にむけて、私が自問自答していることを、読者の皆さんに投げかけてみたい。外交官のはしくれだった私の中で、「日本にとっての世界」において、米国と並んで、中国のもつ意味はすこぶる大きい。以下では、そのすこぶる大きい意味の一部をとりあげ、2、3点のべたい。
まず、「観念的な反日」がデモという「具体的な絵(映像)」になったことが、今後の日本と中国の関係にもつ影響への懸念である。特に、中国市場での「消費者心理」と中国「人材」市場での「人材心理」への悪影響である。たとえば、トヨタやホンダやニッサンの車を買いたいけれど、石でもぶつけられたくないから、日本以外の車にしておこう、といった微妙な消費者心理が、どれくらい働くかである。私のまわりにいる中国人は、ほとんどの人が、日本製品の品質の高さを十分過ぎるほど認めている。反日、日本製品ボイコットなどを声高にとなえた中国人のデモ参加者も、家では、各種日本製品をとりそろえている様子が、日本のテレビでも映し出されていたが、これからもこういうダブルスタンダード的な使いわけが可能なのだろうか。反日感情(政治)と親日本製品(経済)という政・経のダブルスタンダードが、続くのだろうか。
日本製品に対する中国人消費者の心理的な変化とならび、懸念されるのは、日本企業に対する中国人の人材市場の心理である。中国において世間の目のようなものがどれくらい意味をもつのか、私にはわからないが、常識的に考えて、製品を選ぶとき以上に、「日本」に対して特別の感情がおきてしまって、日本企業に就職するのは、やめておこうといった気持ちが起きないだろうか。さらに、大学その他で、日本語を勉強したいという人もへらないだろうか。デモに参加した中国人は限られているが、デモをテレビその他で、目の当たりにした中国人の間に、ミニ・トラウマ的な「反日」反応が起きるのではないだろうか。もっとも幸いなことに、私がこういう懸念を口にすると、私のまわりの中国人は、そんなの関係ないよ、といってくれるが、私の杞憂なのだろうか。
中国に詳しい友人によると、今回の一連のデモは、もともと、学生が中心に計画し、特に、中国の世論が日本の安保理入りに反対していることを世界にむけて、平和的に発信することに意味があったようだ。そういう計画をした学生たちは、暴力的なものになることは想定していなかったはずだ。彼らとて、デモの組織化になれているわけではないし、デモ参加者も慣れていないから、統制がきかなくなったのだろうか。統制がきかなかったという意味では誤算だが、このデモ以降、アナン事務総長などの態度も腰砕けになっているから、世界に対して日本の安保理入りについて中国の反対を示すという学生たちの意図は、ある程度成功したともいえよう(もっとも、破壊行動をおこなったことで、中国に対する信頼性は損なわれたかもしれない)。
第二点目は、今回の一連のデモが、日本にとって悪いことばかりかという点だ。すなおに考えると、日本にとっていいことではないが、あえて、逆張りの視点を2つ提供しておきたい。
まずは、近年、中国にかかわった日本企業・人の側には、世界に門戸を開き、市場経済化する中国に対して、ある種のフィーバー的な幻想が育っていたのではないか。そもそも、中国は、依然として発展途上国であり、社会主義の国である。民主主義や法治主義もまだ不備である。そういう体制でありながら、経済的には、なんとか大健闘してきたというのが実態だろう。にもかかわらず、中国の一部の表面的な急成長のせいで、中国に関係した日本企業や日本人が、中国が日本をすぐに追い越しそうだとか、米国にならぶグローバルパワーだといったある種の幻想をいだいていたのではないか(かくいう私もそういう幻想をもちかけていた)。また、中国の成長にのる形で、自分たちも「回春」的な成長ができると考えてしまったのではないか。確かに、長いスパンでみればそうしたことになるのかもしれないが、現在の中国の実態はまだそこには至っていない。今回の反日デモは、そうした日本企業や日本人のフィーバーに冷水をあびせ、中国の現実を直視する機会を与えたのではないか。
もうひとつの点は、私自身にかかわるささやかなポジティブ・シンキングだ。私は、しばらく前から、中国とは、自分がこれから末永くつきあっていこうと思い始めている。少なくとも、あと1年とか2年で駐在をやめて、そこで、別の仕事に戻る、という考えは、やめて、濃度は変化しても、ずっと中国の人たちとの関係をつくっていきたい、と思うようになった。その気持ちは、じわじわとおこってきたのだが、今回の一連の反日運動は、私の気持ちに対するある種のテストだ。こういう「見たくなかったこと」をみても、なお、私が中国との関係を続けようと思うかというテストである。どうも、私の気持ちは、テストをパスしたようだ。今週は、また中国に戻り、いま、中国人の若い同僚と二人で、蘇州を訪れている。新しくできたルネッサンスホテル(マリオット系)の部屋からみえる緑豊かな公園は、デモと無縁の平和の中にある。公園内の円形広場を、黒い服と白い服をきた中国人(多分)が、ならんでゆっくり、後ろ向きに歩いている。私は、よく後ろ向きに歩きたくなるが、日本でそんなことをしたら変人扱いされるから、周りに人がいないことを確認しない限り、そんなことはしない。中国では後ろ向きに歩いても、誰の目も気にならない。もっとも、車の目を気にしてひかれないようにすることは必要だが。 |
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