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新上海の風:第十三回
  流れを分断するパワーポイント

僕は、外交官だったころから数多くの講演を行っている。特に、コンサルタントになってから、とりわけ「稼ぐ人、安い人、余る人」という本がちょっと当たってからは、その回数も増えた。でも、依然として、講演の前はすごくグルーミーで憂鬱な気分になる。自慢じゃないが、鬱にならなかったことはこれまで一度もない。ものごとには例外があるが、これだけはない。好きじゃないけどたくさんやっていること、たくさんやっているが好きにも得意にもならないこと、というのはそうあるものではないだろう。僕にとっては、講演がそういう天敵である。
しかし、最近、この講演前「鬱」が消える条件に気づき始めた。特に、2年ちょっと前に中国に来てから、外国人の前で、英語で講演する機会が増えたことがこの気づきの背景にある。それも、英語を母国語にしない、中国人やタイ人などアジアの人たちに、英語で講演する機会がでてきたことが大きい。
その気づきはほぼ3つある。人前で話をされる読者も多いだろうから、僕の鬱が消えたり、うまくいくはずのない講演がうまくいったりする不思議な条件についてお話したい。
まず、第一費の気づきは、鬱の気持ちが、実際に話す前の「どこかの時点で消える」というパターンである(不幸のおかげの幸運だから差し引きではプラスじゃない)。消える理由はいろいろだ。たとえば、大きな会場にはいって、たくさんの人、それも、一度もみたことがない人がいる場合に、カタトニアのように心身が硬直して、鬱どころでなくなって鬱がきえる。これは、いわば、毒(緊張)によって毒(鬱)を制するということだろうか。もっと望ましい鬱の消え方は、実際に会場にはいってみて、これまで慣れしたんだ「日本人AND男性AND僕より年配の人中心」と異なる意外な情景によって気分が一新されるという場合だ。特に、「僕より若い人、男性より女性が多い、そして外国人(でも欧米系じゃなくてアジア的な何かがあるとき)」という聴衆に恵まれたとき、鬱も緊張も消える。こういう人たちは、講演の本題に入る前に、「なぜ僕がキャメルといわれるか」という大して面白くもない話をするだけで、ほぼ必ずどっと笑ってくれる。笑いは、僕の緊張をといてくれる。日本だとこんな馬鹿な話をしても、数十人とか100人以上いるなかで、ちらほら、笑いを押し殺す人がいるだけだ。大体、こっちも、はずれた場合をおそれて遠慮がちにぼそぼそこの話をするから受けるものも受けなくなる。
さらに、そんなにいつもじゃないが、こういう消え方もある。それは話す中身を準備していて、「これは誰かに話してみたいな」というポイントが一つでもでてきた場合だ(驚くなから、そういうことがなくても、行ってしまう講演も結構あるのだ。ごめんなさい。)。大体、人の前で話をするのが好きじゃない僕が話をするのは、人から頼まれてしかたなく話すわけだから、別にこちらに話したいことがあるわけではない。でも、しかたなく、パワーポイントで資料をつくっていると、資料づくりにのめりこんで、何かのまちがいで自分の中では新しいと思うことがふとでる。そうすると、ちょっと人に話してみたくなる。
二つ目の気づきは、流れというかリズムに乗れるとうまくいく、ということだ。流れやリズムのどさくさで、鬱が消える。これは、中国のシンセンにおけるある講演で、僕が英語で話して、それを通訳してもらっているときにたまたま起きた。普通、講演の通訳は、非常に値段が高いスピーカーの場合は、ブースにはいった同時通訳をつけたりするが、僕のレベルでは、そういうのはめったにない。そこで、隣に生身の通訳の人がいて、彼や彼女が、僕が、一つのチャート分くらい話したところで通訳してもらう。多くの場合、会社の同僚に通訳を頼むから、事前に十分中身を話しておいて、通訳の同僚に、「本番でどう話すかわからないけど、とにかく、自分のスピーチのつもりで、話してくれればいいよ(added value interpretationという)」といって、責任転嫁しておく。でも、そのシンセンにおける講演では、あまりよく知らない通訳(弊社にはいったばかりでまだそれまで会ったこともなかった男)で事前の打ち合わせの時間もなかった。しかも、スピーチの10分前に通訳の男に会うと、自信なげに「長くまとめて訳すのは大変だから、ワンセンテンスごと訳させてくれ」という。逐語訳の通訳だとリズムが崩れる。もともと調子がよくない僕のスピーチに、逐語訳がはいったのでは、エンジンがかかるはずもない、などと瞬間思ったが時すでに遅しだ。なんと、会場にはいると、数百人の聴衆で、ほとんどが中国人。ただ、救われたのは、「半分以上女性、日本人なし、ほとんどが僕より若い人」というさきほどのべた鬱解除条件が満たされていた。実際にスピーチを始めてしばらくすると、何か変だなと思い始めた。調子が今までになくいいのである。ワンセンテンス僕が英語で話しては、、通訳が中国語でワンセンテンスいう。これが、掛け合いの独特のリズムを生み出した。適度に笑いもとれて、通訳のおかげで、一つの笑いネタで二度の笑いがとれるから、だんだん僕だけ出なくて会場全体の調子がよくなってくる。こっちも、通訳を待つ間に、瞬間的に、こうひねってみよう、こういうジョークをいれようとか、アドリブ気分、即興モードにはいった。話は、予定したものからどんどんそれて、原稿の半分もしゃべらなかったが、時間がきて適当に終わってみると、満場一致の拍手。生まれた初めてのいい感じ。終わったら握手攻め。一体何がおきたのだろう?
でも、悲しいかな、これは一回限りで、再現性あるコンピテンシーとはならなかった。その次の講演では通訳なしだったり、日本に戻って日本語だったりで、条件が整わず、シンセンの掛け合い講演の感激は、その後の鬱気分の中にすうっと消えていった。
ただ幸運の女神が、中秋の名月にのって、この9月22日、23日に再びやってきた。僕は、この両日、連ちゃんでタイのバンコクで講演した。22日は、日本語で日本のトップマネジメントの方を対象に、23日は、タイ人のHR担当者を対象にした。そこで、ちょうど、上記でのべてきたようなことが、再現された。特に、23日は僕が英語で、通訳つきだった。はじめのプランでは、同僚のスピーチも含めて、通訳は、われわれがチャート1枚分を話したあと、まとめて、軽めにやるはずだった。僕の前に話した二人は、予定通りそうした。僕もそうするつもりだった。が、直前になって、中国の、あの流れを思い出して、前にでて、CPをいじりながら、通訳に逐語訳でいこうとを頼んだ。聴衆も3拍子そろっている(女性が多い、外国人が多い、若い人が多い)。これだけ条件がそろえば、やはりうまくいった。逐語訳の掛け合いを再現できた。
3つめの気づきは、資料の準備の仕方だ。普通、パワーポイントでチャートを用意する。それはもうご飯をお箸で食べるくらい今はどこでもだれでもいつでもそうやっている。しかたがない。でも、この方式には重大な問題があると2,3日前に、例の鬱気分に襲われながら気づいた。それは、チャートは、一枚ずつ作るという問題である。しかも、1枚のチャートの中も、ブレット・ポイントとかいってポイントを一つずつ分断して描く。つまりパワーポイントは、「切ること」を強要する。さらに、ワンチャートにはワンメッセージという原則まである。いうまでもなく、話というものは、切れると面白くない。流れるようなストーリーが面白いのである。一枚ずつ、機械的に、パワーポイントに従ってプレゼンの原則にのっとったものほどつまらないプレゼはない。少なくとも、僕のように、そういう基本技にいっこうに習熟しない人が、パワーポイントのフォーマットにそって話すのは聴衆の方に誠に申し訳ない。改めてご容赦ください、これまで僕のプレゼにつきあってくださった方々。しかし、この分断症状にもしばらく前から、ちょっと改善のきざしがでてきた。それは、パワーポイントで作ったうえで、ストーリーラインをワードで、文章として書いておくことだ。別に、原稿を用意しようというのではない。原稿をよみあげるのは、パワーポイント以上に聞いていてつまらない。ストーリーを用意し始めた動機は不純で、講演のネタをあとで、本や雑誌の原稿にしようということだった。パワーポイントの内容をどう話すかは、どうせ頭の中で予行演習するから、それをワードで一応事前にうっておく。さいわい、鬱の中でワードを打つ僕の指の動きはかなり早い。話すのと遜色ない。僕の口より、僕の指は、ハイパフォーマーなのだろうか。実際、そこでワードに書いたストーリーラインをみて話したことはない。いつも手元にはもっておく。とくに鬱がひどいときは、気休めとして。しかし、この「流れ」の練習は意外にいいのかもしれない。もし、さっきお話した「流れ」にはいれるかが、僕の場合勝負だから、その練習をしておくにこしたことはない。
この秋から冬にかけては、結構、講演が多い。それも日本で例の鬱を生み出す3条件のそろった講演が結構ある。流れを殺す鬱の3拍子なんて、感傷にひたっている場合じゃない。僕のすぐれた指の動きに期待して、なんとか鬱の3拍子にぴったりあわせた新しい音楽を作曲したいものだ。




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