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新上海の風:第十回
  アジアの人材パズルにベトナムが加わった?

6月22日から26日、ベトナムのホーチミンに出張した。ベトナムにいくのは始めてだ。
ホーチミンまで、あと数分というところで、飛行機の窓から眼下をみる。おうど色の細い道のような川が、山間をくねって走る。そのうち積乱雲の雲海の中に飛び込む。
雲から出ると、小さな島じまが湾にうかぶ。どの島も、中央は緑だが、なぜかへりは土が露出している。ほどなくホーチミン上空に達した。広い川が流れ、田んぼが多く、その中に町がある。高層ビルがほとんどない。
ホーチミン到着後、空港から市街にむけて車にのりこむ。驚いた。おびただしい数のバイクが走っていて、車はバイク流にうかぶ島のようだ。まだ一人あたりGDPが500ドルのベトナムだから、自動車でなくてバイクなのだが、そういう変な知識をいったん忘れてみると、これは、かなりポストモダンな光景だ。片側2車線で、ところによって、中央より車線が4輪ようで、外側が2輪。でもそんなすみわけは、縦横無尽にやぶられる。ふと反対車線をみれば、4車線すべて使って、横一列に12、3台のバイクがひしめく。4輪は、どうも図体ばかり大きくて、スペースの使いかたがへただ、なんてみえてしまう。2輪は変幻自在に、スペースにしのびこむ。しかも、2輪のバイクに乗る人々も、実に多様だ。スリムな若い女性がスーツをきている姿もあれば、おじさんバイクも、家族バイクも、カップルも。でも、全体が若い。何せ、ベトナムの平均年齢は29歳である。
僕は、仕事の前後1日ずつ、事実上の休暇をとった。ついた翌日、メコンデルタへの1日ツアーに参加した。日本語と英語と両方あったが、前日、英語を選んでおいた。日本語だと、エステプラス、韓竜ならぬ越流の流れにのったお姉さんたちの観光気分につきあうだろうと予想した。英語で正解。私のほかは、若いカップルだけ。このカップルが、米国からきた学者のカップルで、マイクロバスの中から、早速、ベトナムについていろいろ質問できた。ガイドに。ガイドがこれまた優秀だった。東南アジアでは、英語ができる人が、概してレベルが高い。このツアーで得たネタと、翌日仕事で得たネタと、最後の日に、またツアーで得たネタから、いくつか紹介しよう。裏がとれていない情報だが、それほどいい加減なものではないと思う。
まず、ベトナムで、今学ばれている外国語は、4つあるという。フランス語、英語、日本語、中国語だ。これは、ベトナムの歴史を反映している。
まず、1000年に及ぶ中国が支配した時代がある。ちなみに、明から清になったとき中国人の一部がベトナムにのがれてきて、それいらい住み着いている中国人の子孫が100万人はいるといわれる。彼らは、ベトナム人と結婚してまじっている。
さて、1000年のあとの100年は、フランスの統治だ。仏領インドシナなど、われわれも歴史でならっているところだ。僕も、その昔フランスをぶらぶらしていたことがあって、ベトナム料理がおいしかった記憶がある。
そしてフランスに続いて、1950年代なかばから1975年までは米国が南部を中心に統治する。そしてベトナム戦争(ベトナムの人は、そうよばない。抗米戦争とよぶのだろうか?)。
そして、それに前後してソ連の影響が北を中心に強まるが、経済の面でいえば、90年台にはいって、日本が進出してきたことが意外に大きいらしい。それが日本語を習うかなりのベトナム人がいることにつながっている。90年代後半になって、米国が再びベトナムに来るまで、ベトナム人にとって、外資に勤めることが成功のしるしで、そのときまで、外資の中心は日系企業のことだったようだ。
さて、ベトナム人について、基本的なことを確認しておこう(といっても、私も今回はじめて確認したのだが)。人口は8200万人だから、フィリピンやタイ並である。南の中心ホーチミン(昔のサイゴン)に700万人。北の中心ハノイに300万人。さらに、ホーチミンの南に位置するメコンデルタに2000万人がいる。平均年齢は29歳の若さを誇る。依然として子供をつくる意欲が旺盛で、年間100万人増加している。
特筆すべきは、人々の若さと、格差の小ささと、質・レベルの相対的な高さであろう。まず格差の小ささは、おそらく日本の戦後のように小さい。共産党の書記長の月収が230ドル、大統領も同じくらいで、他方、最低賃金は60ドル(学校の先生も60ドルとか)。平均は80ドル。ただ、外資系の進出によって、給与にも格差ができはじめている。外資に勤めるマネジャーの月給は1000ドルを超える。外資のワーカーでも150ドル。
質の高さというのは、9割をこえる識字率のベースがある。東南アジアをよくしっている日系企業の人によれば、ベトナム人は、視野が広く、責任感が強く、プライドも高く、アジアでナンバーワンの質の高さだという(中国人もレベルが高いが、日本人にとっては、反日的なところとか、個人主義の強さとかがややマイナスか)。そもそも、米国を追い払った国民には、ゆるぎない自信があるだろう。また、ベトナム戦争で、ベトコンがほった地下トンネルを見学したが、3層構造で、ジャングルの地下を縦横無尽に通るそのありさまや、米軍兵士をおとしいれた数々のわなには、ベトナム人の地頭のよさがいかんなく現れている。とにかく、勤勉で、柔軟で、細やかで、そういう意味では、労働力としての価値はすこぶる高い。
今回あったベトナム人たちも、日本人のデザイン感覚とか細やかさは自分たちとテイスト的に似ているという。これはベトナムに関係した日本人のいうこととも符号する。だいたい、アジアにあって、ベトナムにとっては、何より反米だったわけで、日本に対する対日感情はすこぶるよい。こちらで話した数人のベトナム人は、郊外へ向かう道を走りながら「この道は、いま、日本からの経済援助でつくっているんだ」、とか、(戦争中の話をむこうからしてきて)「ヤマトというのはどういう意味の日本語か」とか、「山本五十六が真珠湾を見事にせめた」とか、「カミカゼという英雄的行為に感動した」とかいう。「ハ、リ」と日本語思い出せないでつまっていたので、ハラキリというと、ハラキリ、ハラキリといって繰り返す。右に寄ってないはずの私も、親日的な感じがひしひし伝わるから気分は悪くない。
このようにいうと、ベトナムに、日本企業をいざなうみたいにきこえるかもしれないが、どっこい、そんなに話は甘くない(かなり甘いとは思うが)。というのも、米国企業もベトナムにでてきた今、経済的にはベトナム戦争の傷跡もどこえやらで、ベトナム人も、米国企業が大好きである。もう少し広く欧米企業というべきか。彼らの中の、もっともできる層が、なるべく英語をやって、米国系企業に働きたいという点では、東南アジアのほかの諸国や、中国となんら変わることはない。それにつぐ層が、日系企業をねらう。そしてここでも他の東南アジアの国と同じく、日本は、ダントツの2番手である。私のガイドをしてくれたベトナム人は、韓国企業や中国企業とくらべて日本企業がいかにいいか、とうとうと話してくれた。外交上手なベトナム人のいうことだから、そういうものとしてきく必要はあるのだろうが、日本企業が、ダントツの2番手というのは、いわれてみれば、中国でも、東南アジアでも同様である。そして、ベトナム人は私が聞きたくないことを話す。米国企業にはいれなかったベトナム人が、まず日本企業にはいって、そこで経験を積んでから、機会をうかがって米国系企業に転職しようとしていると。
ただ、こういう状況も固定的にとらえることはできない。中国と同様のスピードで、この国は変化の只中にある。中国と同じように、政治的には共産党の一党支配だが、これまた中国と同様に市場経済化を進めている。外資からのアテンションがまだ中国の域には達していないが、中国よりもある意味では柔軟なところもあり、土地所有も認められている。また、中国とちがって、いかにも腰が低く、頭も高くなく、柔軟だ。頭のいい人たちだから、ひょっとすると、すごくしたたかなのかもしれない。東南アジアのほかの国とくらべて、人材のレベルの高さなどから、今後は有望だろう。
数日滞在しただけで、あまり断定的なことはいえないが、私が最近、関心をもっている東アジア、東南アジアの人材パズルの中で、何か、一つ抜けていた場所に、一つのピースがはまりこんだような気がしている。ベトナムにいくまで、私の頭の中の地図には、そういうあいた場所はなかったのだが。



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